令和立新の心

新たな視点で日本社会を俯瞰します。

令和立新の心コラム3

●マニュアル信仰
 新型コロナウィルスの感染が拡大し始めた当初、マスコミは、国が指針を示さないと何も始まらないし動けないと報じていました。確かにそういう一面はありますが、国が決めなくてもやれることはあります。地方の知事などが全面的に責任を負うことで、初動の適切な対応ができるはずです。実際にやっている知事はいます。ただ日本の政治家のほとんどは責任を取らされることを嫌い、平穏無事に任期を過ごし、次の選挙で選出されることを願っています。指示待ちで責任逃れをしているわけです。政治ばかりでなく、携帯電話の契約の際に細かい字で書かれている約款にも通じる面があります。1年縛りなどのユーザーにとって都合の悪い規約がある場合、うっかり解約をすると違約金を取られたりします。携帯電話会社側の言い分としては、書いてあるのに読まないのが悪いという姿勢になります。しかし、わかり難いように書いていてもそれは、一向にお構いなしです。これもマニュアル信仰の変形型ではないでしょうか。

 以前、アメリカで電子レンジに猫を入れて乾かそうとして猫が死んで、訴訟沙汰になったと言うのがありました。取り扱いマニュアルに猫を入れては行けないと書いてないからだそうです。これはアメリカの訴訟社会を揶揄したネタで、一種の都市伝説になっています。誰が見ても猫を電子レンジに入れる方が頭がおかしいと言えます。しかし、このようなことが起こりかねず、電子レンジの説明マニュアルには、生きた動物を入れないようにと書かれているそうです。こんなことがまかり通る社会は健全ではありません。訴訟社会はアメリカに限らず世界標準なので、これに従うのがグローバル化だと言います。日本人は何でも外国がやっていることが正しく、盲従する傾向にあります。しかしこれが世界標準ならば、変えさせることを考えないのは思考停止ではないでしょうか。日本人がおかしいと感じる、日本発の価値観を世界標準にしても良いはずです。

 大量生産大量消費の20世紀型の社会では、マニュアルは有効的に機能していましたが、いろいろな面で多様化している21世紀でマニュアル頼みは時代遅れと言えます。近年、日本人は何をするにもマニュアルに頼ることが多くなっています。マニュアルに書いてある通りにやったから責任がないとか、マニュアルに書いてないから何もしないというのをよく耳にします。マニュアルは聖書ではありません。こんなことを是としている人間は、プログラムされていないことはできないロボットと同じです。AIが導入されたロボットに置き換えられても、全く問題がありません。マニュアルを信奉するあまり、マニュアル作りが壮大な事業のようになっています。様々な状況を想定して完璧なマニュアル、どこから突かれてもボロが出ないマニュアルを作ろうとします。しかし一見完璧に見えても必ず不備があり、その時点で問題がなくても時を経て時代が変われば、不備が出てくることもあります。完璧なマニュアルを作り、神聖化することは無意味と言えます。

 裁判制度にもマニュアル信仰の弊害を及んでいるのではないでしょうか。過去の判例にないから判断できないとか、判例にないから刑罰を重くできないとかがあります。判例がある種のマニュアルになっているように見えます。判例を神聖視せず、法の精神に則って考えれば導き出せる結論はあるはずです。これも後々誤った判断と糾弾されることを恐れて、思考停止に陥っていると言えます。
 このような裁判制度の中で、裁判員制を導入して、高い給料をもらっている裁判官の負担を減らそうとしています。一般庶民の意見を反映すると言いつつも、最終的な所は裁判官が判例に基づいて決定するので、どの程度反映されているかわかりません。また殺人事件などの凄惨な写真を見せずに判断させるのもどうかと思います。裁判員がトラウマになることを防止するためと言いますが、トラウマになるように仕事を一般庶民にやらせているわけです。凄惨な殺人現場の写真を見せなければ、死刑という判断がし難くなるといった配慮もあると聞きます。どこか本質からズレているようです。昔なら、こういうトラウマになるような仕事をしている裁判官だから、高い給料を払っても仕方ないと言えました。しかし裁判官の給料はそのままに、負担だけを庶民に分けるという
発想はおかしいのではないでしょうか。また当初、裁判員制度が根付かないので、ゆるキャラを作って普及させると言うのもありましたが、全く見当はずれです。つまるところ裁判員制度はお飾りの裁判員を立て、判例といったマニュアルを活用し、裁判官が責任を取りたくないわけです。

 これらは憲法に書いてないから、書いてあるからというロジックに似ています。憲法は神聖なもので、変えてはいけないという信仰のようなものにも通じます。人間は不完全なものです。その人間が作った憲法も不完全であり、変えていく必要があるのです。憲法も大きな意味ではマニュアルでしょう。戦後日本を縛ってきた憲法、特に9条は、どう考えても日本を不利にし、外交でハンデ戦を強いられるのと同じです。これを守って喜ぶのは外国で、日本に利益はほとんどありません。戦後、日本に戦争がなかったのは、一重にアメリカの核の傘にあったからです。それなのに憲法と言うマニュアルを神聖化し、思考停止になることに慣らされてきました。これがマニュアル信仰の根底にあるようです。

 それでは、マニュアルが悪いので、廃止したらという極端な発想になりかねませんが、そういうわけではありません。最低限のルールや決まりを示す手引書や取扱説明書のようなものは必要です。手引書をマニュアルと呼んでも同じです。しかしマニュアルは神聖で、それに背けば大悪人、従ったことで罪が免れるものではありません。マニュアルはある程度の指針にはなりますが、それを越えたことは個々の判断力になります。それには、一人一人の道徳的規範がしっかりとしている必要がありますし、経験値も必要でしょう。それらを養うことが大切です。戦後、日本の教育は75年近く道徳教育は軍国主義の復活につながるといった左翼的な発想により、軽視されてきました。道徳とは言わずソーシャルマナーにすれば、受け入れるられのかもしれません。言葉のまやかし
ですが、それをしてでも教育に導入すれば、自らの判断で善悪が見極められるはずです。自由をはき違えた感情むき出しの野蛮人を育てるのではなく、誰もが最低限の規範を共通認識として持てば、社会の負担は減るはずです。長文と化すマニュアルはいらなくなります。
 また不測の事態などは、どう想定してもマニュアル化することが不可能なものもあります。そこで東京ディズニーランドは、東日本大震災の際、現場のスタッフが考えて行動したとが称賛されています。マニュアルから逸脱したことがやれる空気が、東京ディズニーランドにはあったわけです。あれが人としてあるべき姿ではないでしょうか。マニュアルに飼いならされている日本社会において、東京ディズニーランドがしたことは、マニュアル信仰が間違いだと指摘しているわけです。自分で責任を持ち、自分で考えて行動ができれば、マニュアルに齧りつく必要はなくなると言えます。

 

令和立新の心コラム2

●教育のあり方
 ここ数年、行き過ぎた安全策が子育てや教育現場で行われているようです。現代の子供はひ弱なので、親や教師が保護しなければ、昔と違って生きていけないといった勘違いがあります。木登りは落ちると骨折などをして危険だからやめさせる。やるならツリークライミング教室に通わせ、安全にやらなければならない。一見すると一理あるように見えます。ツリークライミング教室という働き口ができて、経済的にも潤うようです。しかし木登りには、そういうことではなく、高い所に上る時の恐怖感や危険を自らが体感することに意味があります。危ないことは何でも禁止し、子供や保護者とのトラブルを減らしたいというだけでは教育になりません。何が危険かを見ることで、危険なことに対して子供なりに考えることができるようになります。全く危険と接したことが
ない子供は、高い所に立っても全く恐怖を感じず、平然と落下するといった事例があります。知らないことこそが危険なのです。

 とは言っても落ちてケガをしたら取り返しがつかないと言うかもしれません。ケガをして思い知ることも大切です。親や先生に黙って見守ることができず、ちょっとでもケガをしたら誰が加害者で誰が被害者として訴えると社会は歪んでいます。気持ちの余裕や物事の程度を見極める能力が昔に比べ劣っています。学校はサービス業だから、クレームをつけてカネにしようという考えの人もいます。学校はサービス業ではなく、先生はただの労働者ではないのです。この認識のズレが社会をダメにしています。先生は子供を教え導くものです。教壇をなくし上下関係をなくし、友達のように接することではありません。先生と生徒といった違いを認識させる必要があります。親子関係も優しさを持って見守ることはあっても、友達ではいけないのです。

 怒らないで褒めて伸ばすというのがあります。海外では怒らないで褒めることで才能を伸ばしていると言いますが、どこでも誰でもそうなのでしょうか。褒められた伸びると人もいれば、褒められてそれに甘んじる人もいます。一方で、けなされてムキになり頑張る人、叱咤激励されて伸びる人もいます。個人差があるので褒めるだけが良いとは言い切れません。何をしても怒らずに褒めれば生徒たちは喜ぶかもしれません。しかし怒らなければ、いけない場面は必ずあります。それを否定するのは間違っています。嫌われることを怖がり、怒れない、もしくは怒らない教育者や親が増えているようです。

 この怒り方には度合いがあります。自分が怒ったことがあまりなかったり、怒りの感情を抑えてばかりの人は時として爆発し大きな度を越した怒りになります。これがニュースなどで大々的に報じられて、教育の崩壊のようなことを指摘したりします。確かに教育の現場では、感情に任せて怒ることはあまり相応しくありません。しかし先生も生徒も人間です。感情を交えて怒ることもあるでしょう。それでも上手に怒ったり叱ったりできれば、問題はないのです。実際に自分が先生や親から怒られた経験のない人は、どの程度怒って良いのか度合いを知りません。だから、極端な行動になってしまうのです。人間は不完全な存在なので、異常な性格の人もいるでしょう。そう言う者をいかに排除できる仕組みを作るかに重点を置き、正しい上下関係あっても良いのではないでし
ょうか。

 生徒に掃除をさせない学校もあると聞きます。学校に勉強に来ている生徒に掃除をさせる時間がもったいない、嫌がることはさせたくないという理由からのようです。用務員に掃除させれば、よりきれいになると言います。しかしそう言うことではなく、教室を掃除させることに意味があるのです。人が嫌がることをやる意味や忍耐力を養う面があります。教室をきれいにする労働作業だけではないのです。ただの労働作業として捉えるのは間違いです。掃除をサボる生徒、真面目にやる生徒などいろいろな人間模様も見えます。人の行動に何を思い、どう解決させるか考えるきっかけにもなります。未熟な考え方をしている生徒に誠心誠意耳を傾けて、要求を呑むのが適切な対応とは考えられません。しかし生徒の言い分を頭から否定するのとは違います。聞く耳はもっても、
従うことなく理由を説明すれば良いのです。
 
 文部科学大臣などが学校からイジメを根絶する、イジメは認めないと口で言うのは簡単ですが、人間はどうしてもイジメにはしりやすい存在です。イジメのあった学校にはペナルティーかすなんていうこともあります。イジメの基準を作り、ここまでがイジメで、その基準を満たしていないのでイジメはなかったと主張する学校もあります。これらは一種のごまかしです。イジメは起きるという前提に立ち、イジメる側もイジメられる側もそれをどう解決するかを学ぶべきです。しかし現在はネットの普及に伴い、SNSによるイジメがあり、陰湿で根が深い側面があります。SNSに頼り切っている生活に問題があるかもしれません。ネットリテラシーのようなネットにおける道徳教育があっても良いのではないでしょうか。

 教育の内容的な面では、今までの英語教育は、会話ができないので間違っていたと言いますが、本当にそうでしょうか。会話は頻繁に使っていないと忘れやすく、どちらかというと必要に迫られないと身に着かない面があります。小学校から英語教育を始めても日本語能力が減るだけで意味がないように見えます。以前の中学校からの英語でも、文法などをしっかりと頭に叩き込むので、文章を読むには、かなり有効ではないでしょうか。文法的なことを知ってから、会話を知ると理解度が早まります。またかなり本格的な会話翻訳機ができているので、近い将来、会話よりも読み書きが重要になるかもしれません。一概に否定できる英語教育ではないと言えます。
 グルーバル化が叫ばれ、英語は国際語の地位にありますが、自分の国の言葉も満足に話せないのに英語と言うのはどうなのでしょうか。海外では自分のアイデンティティをしっかりと持っていない人はバカにされます。日本語も英語も中途半端で、国籍不明の極東の小国人では、世界で指導的な立場になれと言っても無理があります。

 日本の大学の留学生が減ったから、入学時期を4月から10月にズラすといった小手先のことをしても、留学生は増えません。世界的に見て魅力的な学部学科がなければ、何をしても無駄です。そこでしか学べないものがあれば、入学時期など関係なく留学するはずです。センター試験の制度を変えても、先を見越した理念がなければ、過去のゆとり教育と同様に愚策となるでしょう。いずれにしましても、文部科学省がいろいろとやっていることは、場当たり的でズレている面が際立ちます。何を目指している教育なのか不明瞭です。教育はその国の根幹をなすので、外圧や目先のことに捉われず、国の実情に合わせた改革や制度が必要と言えます。

 

令和立新の心コラム1

令和立新の心コラム1

●覚醒
 収束の目途が立たない今回の新型コロナウィルスの一件では、人権を含めた民主主義の限界や、被害者と加害者を生み出す対立構造、マニュアル信仰の社会に疑問符が投げかけられていると言えます。現代社会を形作っている価値観に対して、行き過ぎがあり機能不全に陥っていると警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。過去に経験のないことが頻発し始めた世の中では、今までの価値観では対応できない面が目立ってきました。

 共産社会主義が失敗に終わり、自由経済民主主義が勝利したように見えましたが、アメリカの部分的な衰退、中国の発展を見ると、どうもそうではなさそうです。日本がどっぷりとつかっている資本主義や自由経済、民主主義といった価値観は、もはや時代遅れで対処しきれないのかもしれません。マニュアルや硬直化した憲法、過去の事例や判例などといちいち照らし合わせていては、何事も解決は遅くなります。的確で素早い柔軟な対応が求められていると言えます。特に日本はこの20年余りで全くダメな社会構造になっています。これは昭和に入ってからの日本によく似ています。近代日本では77年前後の周期で、致命的で大きな変革を伴う「壊滅再出発期」が到来するようです。明治維新から終戦終戦から2022年頃がそれにあたるので、後2年以内に現在の体制が崩壊し、新しく生まれ変わるのかもしれません。

 死刑廃止ややたらに保釈認めたり、精神鑑定の結果、刑が軽くなると言った考え方が、外圧として日本に向かってきています。果たしてそれが正しいと言えるのでしょうか。死刑廃止に関しては、あっさりとそれに屈している国もあれば、自国の人口や犯罪発生率に応じて抵抗している国もあります。フランスなどは凶悪犯やテロ犯を捕まえても死刑にできないので、その場で射殺することが多いようです。犯罪者が人を殺すことに寛容でも、それを取り締まる死刑は虐殺に等しいという考え方は、どうも理解に苦しみます。行き過ぎた人権は、正直な人の感情を抑え込み歪めることになります。いくら論理的に説明されても、納得できる人は少ないはずです。 現在の刑事司法制度に不備が多く、冤罪が多いのなら、刑罰を軽くするのではなく、根本となる刑事司法制度のあ
り方を改善する方が筋ではないでしょうか。一例を挙げただけでも、現代社会を形作ってる価値観などはどこかズレているようです。

 ネット社会は、原始民主主義に似た面があり、誰もが自分の意見を公にすることができます。マスコミが世論を操作して国民を誘導することが難しくなっています。以前でしたら、新聞やテレビで報道していることを盲従し、疑う人はいませんでした。それなりの信頼度がありました。しかし今は、信頼度はがた落ちで、変だと思ったり偏っていると感じれば、声を上げることができます。その分、国民の情緒的な面がクローズアップされがちにもなります。これらの国民の意見に指導者が流されて、変な方向に進む衆愚民主主義に陥っていりやすくなります。ポピュリズムがまさにそれにあたります。民主主義はある程度良い面はあったのですが、ネット社会になると、それに合わせた民主主義に変化する必要があるのではないでしょうか。

 政治も時代遅れになっているかもしれません。選挙はネット上で演説したり、投票したりと形を変えて良いはずです。選挙に億のカネをかける必要があるのでしょうか。現在の国会議員は当選することと、与党になることしか頭になく、純粋に国政を考えている人は皆無と言えます。与党は政権の支持率ばかりを気にしていると、国家百年の大計など作れるはずもありません。野党は、政権奪取のために言葉尻を批判したり、風紀委員会みたいなことをしていては、与党の間違いを修正することができません。いずれにしても与野党が激しく対立する構造は、良い方向に進まないでしょう。政権維持や当選を気にせず国家の運営ができれば、もっとまともになるはずです。票を得るためのパーティーなどはせずに、常に国に発展を専門家を交えて議論している組織が与党になり、
その組織の構成員が国会議員になるのはどうでしょうか。このような組織同士が切磋琢磨し、人気や学歴でなく、どの程度国の発展に寄与しているかなどで、与党に選出するわけです。下野している組織は、対立するのではなく修正案など提出します。スキャンダルなどは、国会の風紀委員会に任せれば良いと言えます。党や国会議員のあり方を根本的に変革したいものです。