令和立新の心

新たな視点で日本社会を俯瞰します。

令和立新の心コラム2

●教育のあり方
 ここ数年、行き過ぎた安全策が子育てや教育現場で行われているようです。現代の子供はひ弱なので、親や教師が保護しなければ、昔と違って生きていけないといった勘違いがあります。木登りは落ちると骨折などをして危険だからやめさせる。やるならツリークライミング教室に通わせ、安全にやらなければならない。一見すると一理あるように見えます。ツリークライミング教室という働き口ができて、経済的にも潤うようです。しかし木登りには、そういうことではなく、高い所に上る時の恐怖感や危険を自らが体感することに意味があります。危ないことは何でも禁止し、子供や保護者とのトラブルを減らしたいというだけでは教育になりません。何が危険かを見ることで、危険なことに対して子供なりに考えることができるようになります。全く危険と接したことが
ない子供は、高い所に立っても全く恐怖を感じず、平然と落下するといった事例があります。知らないことこそが危険なのです。

 とは言っても落ちてケガをしたら取り返しがつかないと言うかもしれません。ケガをして思い知ることも大切です。親や先生に黙って見守ることができず、ちょっとでもケガをしたら誰が加害者で誰が被害者として訴えると社会は歪んでいます。気持ちの余裕や物事の程度を見極める能力が昔に比べ劣っています。学校はサービス業だから、クレームをつけてカネにしようという考えの人もいます。学校はサービス業ではなく、先生はただの労働者ではないのです。この認識のズレが社会をダメにしています。先生は子供を教え導くものです。教壇をなくし上下関係をなくし、友達のように接することではありません。先生と生徒といった違いを認識させる必要があります。親子関係も優しさを持って見守ることはあっても、友達ではいけないのです。

 怒らないで褒めて伸ばすというのがあります。海外では怒らないで褒めることで才能を伸ばしていると言いますが、どこでも誰でもそうなのでしょうか。褒められた伸びると人もいれば、褒められてそれに甘んじる人もいます。一方で、けなされてムキになり頑張る人、叱咤激励されて伸びる人もいます。個人差があるので褒めるだけが良いとは言い切れません。何をしても怒らずに褒めれば生徒たちは喜ぶかもしれません。しかし怒らなければ、いけない場面は必ずあります。それを否定するのは間違っています。嫌われることを怖がり、怒れない、もしくは怒らない教育者や親が増えているようです。

 この怒り方には度合いがあります。自分が怒ったことがあまりなかったり、怒りの感情を抑えてばかりの人は時として爆発し大きな度を越した怒りになります。これがニュースなどで大々的に報じられて、教育の崩壊のようなことを指摘したりします。確かに教育の現場では、感情に任せて怒ることはあまり相応しくありません。しかし先生も生徒も人間です。感情を交えて怒ることもあるでしょう。それでも上手に怒ったり叱ったりできれば、問題はないのです。実際に自分が先生や親から怒られた経験のない人は、どの程度怒って良いのか度合いを知りません。だから、極端な行動になってしまうのです。人間は不完全な存在なので、異常な性格の人もいるでしょう。そう言う者をいかに排除できる仕組みを作るかに重点を置き、正しい上下関係あっても良いのではないでし
ょうか。

 生徒に掃除をさせない学校もあると聞きます。学校に勉強に来ている生徒に掃除をさせる時間がもったいない、嫌がることはさせたくないという理由からのようです。用務員に掃除させれば、よりきれいになると言います。しかしそう言うことではなく、教室を掃除させることに意味があるのです。人が嫌がることをやる意味や忍耐力を養う面があります。教室をきれいにする労働作業だけではないのです。ただの労働作業として捉えるのは間違いです。掃除をサボる生徒、真面目にやる生徒などいろいろな人間模様も見えます。人の行動に何を思い、どう解決させるか考えるきっかけにもなります。未熟な考え方をしている生徒に誠心誠意耳を傾けて、要求を呑むのが適切な対応とは考えられません。しかし生徒の言い分を頭から否定するのとは違います。聞く耳はもっても、
従うことなく理由を説明すれば良いのです。
 
 文部科学大臣などが学校からイジメを根絶する、イジメは認めないと口で言うのは簡単ですが、人間はどうしてもイジメにはしりやすい存在です。イジメのあった学校にはペナルティーかすなんていうこともあります。イジメの基準を作り、ここまでがイジメで、その基準を満たしていないのでイジメはなかったと主張する学校もあります。これらは一種のごまかしです。イジメは起きるという前提に立ち、イジメる側もイジメられる側もそれをどう解決するかを学ぶべきです。しかし現在はネットの普及に伴い、SNSによるイジメがあり、陰湿で根が深い側面があります。SNSに頼り切っている生活に問題があるかもしれません。ネットリテラシーのようなネットにおける道徳教育があっても良いのではないでしょうか。

 教育の内容的な面では、今までの英語教育は、会話ができないので間違っていたと言いますが、本当にそうでしょうか。会話は頻繁に使っていないと忘れやすく、どちらかというと必要に迫られないと身に着かない面があります。小学校から英語教育を始めても日本語能力が減るだけで意味がないように見えます。以前の中学校からの英語でも、文法などをしっかりと頭に叩き込むので、文章を読むには、かなり有効ではないでしょうか。文法的なことを知ってから、会話を知ると理解度が早まります。またかなり本格的な会話翻訳機ができているので、近い将来、会話よりも読み書きが重要になるかもしれません。一概に否定できる英語教育ではないと言えます。
 グルーバル化が叫ばれ、英語は国際語の地位にありますが、自分の国の言葉も満足に話せないのに英語と言うのはどうなのでしょうか。海外では自分のアイデンティティをしっかりと持っていない人はバカにされます。日本語も英語も中途半端で、国籍不明の極東の小国人では、世界で指導的な立場になれと言っても無理があります。

 日本の大学の留学生が減ったから、入学時期を4月から10月にズラすといった小手先のことをしても、留学生は増えません。世界的に見て魅力的な学部学科がなければ、何をしても無駄です。そこでしか学べないものがあれば、入学時期など関係なく留学するはずです。センター試験の制度を変えても、先を見越した理念がなければ、過去のゆとり教育と同様に愚策となるでしょう。いずれにしましても、文部科学省がいろいろとやっていることは、場当たり的でズレている面が際立ちます。何を目指している教育なのか不明瞭です。教育はその国の根幹をなすので、外圧や目先のことに捉われず、国の実情に合わせた改革や制度が必要と言えます。